アントニオ猪木。 アントニオ猪木と北朝鮮との関係まとめ!なぜ訪問できるのか理由を調べてみた

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アントニオ猪木

アントニオ猪木の本名は? アントニオ猪木の本名 猪木寛至(いのき かんじ) アントニオ猪木さんといえば、「いのき ボンバーイエー」と「元気ですかー」などの掛け声で知られていますね。 プロレスブームの火付け役ともいえるアントニオ猪木さんですが、 本名はもちろん別にあります。 アントニオ猪木さんの本名は「 猪木 寛至(いのき かんじ)」といいますが、1991年にイラクのシーア派聖地・カルバラーでイスラム教に改宗しているので 、ムスリム名「モハメッド・フセイン」もあります。 そのため、本名と別に「モハメッド・フセイン・イノキ」という名前も持っています。 「猪木」の名字の全国順位&人数 スポンサーリンク 「猪木」という名字は「いぎ」とも読むそうです。 全国順位6,356位で、人数にするとおよそ 1,500人ほどになります。 「猪木」の由来 「猪木」の由来は清和天皇の子孫や現島根県西半部にあるようです。 ここ最近では 岡山県倉敷市に多数みられる名字となっています。 アントニオ猪木の国籍 アントニオ猪木さんは幼少期に ブラジルに日本からの移民として一時的に移り住んでいます。 帰国後は日系人と見られたり、国籍もブラジルだと思われていました。 しかし、国籍を変えたことはないため、生まれた時からずっと 日本国籍のようです。 アントニオ猪木の生い立ちが壮絶 アントニオ猪木さんは父親・猪木佐次郎さん、母親・文子さんの間に誕生し、 10人兄弟の9番目という大家族の中で育ちました。 5歳の時に父親が亡くなってからは実家の石炭問屋が倒産し、 極貧生活を強いられます。 しかし、その問屋も第二次世界大戦後にエネルギー資源が石油に変わった影響をうけ 倒産します。 スポンサーリンク 父親が病気で他界してからはアントニオ猪木さん一家は 貧困におちいります。 アントニオ猪木さんは12歳の頃から 横浜市立寺尾中学校に通い始めましたが、一家(祖父、母親、兄弟たち)は貧困から抜け出すために ブラジルへ移住します。 当時国が政策として推し進めていたのがブラジルへの移住で、それを信じたようです。 しかし渡航中の船上で、祖父が毒性のある未熟なバナナを食べてこの世を去ってしまいます。 アントニオ猪木さんは、自分をかわいがってくれた祖父が「乞食になっても世界一の乞食になれ」との言葉を今でも覚えているそうです。 その言葉通り、 おじいさんの遺体を日の丸の国旗にくるみ、海に流しました。 当時の日本は戦後の不景気で失業者がたくさんいたため、政府がラジルに行けば広大な土地と安住できる場所があるとあおり、ブラジルへの移住をすすめていたそうです。 奴隷労働の日々 アントニオ猪木さんはブラジル到着後、 サンパウロのコーヒー農園で働くことになります。 そこでコーヒー豆の収穫を中心とした仕事をしていましたが、朝5時から夕方5時までというかなり長い労働時間で、作業が終わってから小屋に戻って着替えると、Tシャツに汗の塩分がしみ込んでおり、Tシャツが固まって立つほどの汗をかいていたそうです。 作業のたびに手がずるむけて血まみれになってしまい、まだ少年だったアントニオ猪木さんは痛みをこらえながら労働をこなしていました。 労働契約は1年半でしたが、その間何があってもこの農園で働き続けなければならないという契約を結んでいました。 そのため途中で逃げることはできず、 ただひたすら耐えるしかできませんでした。 そん中、アントニオ猪木さんは日本では運動音痴として馬鹿にされていましたが、ブラジル移住後に 陸上選手としての才能が発揮され、砲丸投げなどの大会で優勝するようになります。 力道山さんといえば日本プロレス界の重鎮ともいえる伝説的プロレスラーですが、力道山さんの 出身地は北朝鮮なので、アントニオ猪木さんに北朝鮮との縁が芽生えます。 帰国後トレーニングに励んだアントニオ猪木さんは、プロレスラーとしてジャイアント馬場さんと同日にデビューしました。 アントニオ猪木さんが議員になった現在も北朝鮮問題にかなり肩入れするのは、 師匠・力道山さんが在日朝鮮人であったからですね。 アントニオ猪木さんは1989年に国会議員となり、その後北朝鮮を訪問する際、訪問理由するかを問われたので、「力道山の弟子として」と答えます。 日本の国会議員という立場でありながらそのような発言をしたため、批判されることもあったそうです。 力道山さんが在日であることを知ったのは、1989年にスポーツ平和党党首として 政治家になってからでした。 付き人時代は、その事実をまったく知らなかったそうです。 当時相撲番付には力道山さんが「朝鮮出身」と書いてあったそうで、アメリカに行ったあとに朝鮮人なことを隠していました。 力道山さんが亡くなって日本プロレスが衰退していくと、アントニオ猪木さんは 新日本プロレスを立ち上げっます。 一方ジャイアント馬場さんは全日本プロレスを立ち上げ、日本プロレス界が生まれ変わったのでした。

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アントニオ猪木対モハメド・アリ

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新間 私と猪木は大阪ロイヤルホテルに泊まっていたが、夜、電話が鳴った。梶原一騎先生からであった。 「新間君、オレも今同じホテルにいるから、ちょっと来ないか」と言う。私は早速、先生の部屋を訪れた。 するとそこには、梶原一騎先生の他、士道館の添野義二師範とその門下生数人、そして、どうも堅気とは思えない人たちが数人いた。 聞くと、T会の関西支部長と、その子分という話だった。いきなりこの支部長が、私に食って掛かってきたのである。 「コラ新間! 」という調子だ。 「一体、なんですか? 」と戸惑って梶原先生と添野師範の方を見ると、彼らが説明する前に、支部長がとんでもない剣幕でまくしたててきた。 「図にのるな! 猪木を呼ばんかい猪木を!! 」 「猪木に何かご用ですか? 」 「猪木に言ってやりたいことがあるんや! 早く呼ばんかい!! 」 わきに立っていた添野師範が軽く目で合図をした。仕方ないので、私は猪木の部屋に電話をかけた。 「今、梶原先生の部屋にいるんですが、社長、ちょっと来てくれませんか」 おう、わかった…と応じた猪木は、ほどなくして部屋に来た。 新間 猪木が部屋に来るなり、間髪を容れず、支部長の大声が始まった。 「コラ猪木! 空手の寛水流とは何事だ。空手は梶原が極真やっとるやないか。それを寛水流なんてのをつくるってのはどういう了見だ。梶原を何だと思ってるんや! 」 猪木は戸惑い、「何ですかこれは」と梶原先生の方を見たが、梶原先生が答えるヒマさえなかった。 「なんですかとはなんや! ふざけるな」 そして呂律の回らない口調で、ほとんど聞き取れないような言葉をまくしたてる。酔っ払っているんだか、クスリをやっているんだか、意味不明である。 猪木は眉をひそめ、こう言った。 「寛水流のことなら、私より新間の方が詳しいから」 そして猪木はさっさと自分の部屋に引き上げてしまった。猪木がこの部屋にいたのは実質3分ぐらいなものである。 すでに時計は23時半を回っていた。 新間 猪木が去った後も、支部長は絶えずまくしたてる。 「寛水流だあ? どういうつもりなんや! 」 「いや、そう言われても。なぜそういうことを言われなくてはならないのか、理解に苦しみます。寛水流をつくったのは…」 だが、少しでも反論の姿勢を見せると、すぐにさえぎられる。 「なんやとお? 何が寛水流や! 」と、こちらの一言一言にインネンをつけてくるのである 略 。 「オレをただもんだと思ったら大きな間違いやで。チャカでも何でも出したろか! 笑 」.

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アントニオ猪木の身長縮んだとの噂は本当か?若い頃と現在との差は?

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チャンネル登録者数、総再生回数は 000000002020-07-21-0000 2020年7月21日時点。 アントニオ猪木(アントニオいのき、: Antonio Inoki, - )は、の元、、。 : 猪木 寛至(いのき かんじ)。 設立後のは「 燃える闘魂 」。 所属時代のは「 若獅子」。 は「 アントン」。 のとがあり(4回結婚している)、二番目の妻はのである。 倍賞との間にが一人いる。 にの聖地にてに改宗しており、ムスリム名は「 モハメッド・フセイン・イノキ」である。 ただし、によると本人はとも自認する。 プロレスラーとしては新日本プロレスの創業やで活躍。 政治家としては(2期)、、副、国民運動局長兼参議院、最高顧問、同代表などを歴任。 プロフィール [ ] 生い立ち [ ] 生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。 父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。 父親は猪木が5歳の時に死去。 前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている。 実家はを営んでいたが後、世界のエネルギー資源の中心が石炭からに変わっていったこともあり倒産。 現在は在住。 12歳でに入学するも、生活は厳しかった。 13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにへ渡り 、市近郊の農場で少年時代を過ごす。 ブラジル後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時まで豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。 幼少時代はが鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「の寛ちゃん」などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は選手として現地の大会に出場し、で優勝するなど、その身体能力を発揮する。 その際、ブラジル遠征中のの目に留まる。 プロレスラーとして [ ] アントニオ猪木 Antonio Inoki プロフィール リングネーム アントニオ猪木 猪木 寛至 カンジ・イノキ トーキョー・トム リトル・トーキョー・トム ミスター・カジモト 本名 猪木 寛至 ニックネーム 燃える闘魂 身長 190cm - 191cm 体重 102kg - 110kg 誕生日 1943-02-20 (77歳) 出身地 所属 フリー スポーツ歴 トレーナー デビュー 引退 プロレスデビュー [ ] (昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていたから直接スカウトされて日本へ帰国し、に入団。 力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。 上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。 デビュー後は、猪木の素質に目をつけたからもトレーニングのオファーを受けた。 のデビューと同日の(昭和35年)9月30日、本名の 猪木寛至として、東京都台東区のでを相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)。 (昭和37年)11月9日、での長沢秀幸との試合において、を アントニオ猪木に改名。 このリングネームは、先輩レスラーによる命名である。 当時の名レスラー、にあやかって名付けられたという説が一般的であるが 、「ブラジル帰りの」であることを強調するためなど諸説ある。 なお、本名で活動中に出演した『』での役名「 死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという。 での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた(猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後であった)。 デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は(昭和38年)12月15日に死去。 アメリカ武者修行 [ ] (昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。 この時のリングネームは、のであるをもじった「 リトル・トーキョー・トム」等多数。 、、をサーキットし、2年後に帰国。 この遠征中には、と組んで版のNWA世界タッグ王座 、およびと組んで版の同王座を奪取している (同期の馬場はのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。 なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である。 東京プロレス [ ] (昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、やらとの合同練習に参加するために立ち寄ったにおいて、前年末にを退社し、極秘裏にハワイ入りしていたに「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱()。 帰国後の4月23日、自身をエースとする の設立を豊登とともに公式発表。 10月12日の旗揚げ戦でのとの試合で名声を得る。 しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。 「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「 板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる。 日本プロレス復帰 [ ] 日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、ジャイアント馬場とのタッグチーム「 」としてを獲得。 NET(現:)が日本プロレス中継を開始した際、との取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、を獲得した。 また、のに挑戦した。 しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決は当時タブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から(昭和46年)に追放処分を受ける(詳しくはを参照)。 同年11月、のとした。 新日本プロレス設立 [ ] 日本プロレスを追放された後の(昭和47年)1月26日に を旗揚げした。 当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。 また、率いるの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元のエースとの大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩であるとの遺恨試合、との実力世界一決定戦などで人気を博す。 や、などを外国人エースとして育成もした。 と提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。 異種格闘技戦 [ ] 新日本プロレスは、「 プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「」を標榜。 その後のプロレスに大きな影響を与える。 猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄、「熊殺し」の異名をとる空手家との対戦など、への挑戦を続け、後年のの礎を築いた。 中でも統一世界チャンピオン、との一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。 日本では、昼間の生中継と同日の19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはを参照)。 (昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでの元大統領であるとの異種格闘技戦の計画が浮上した。 アミンは猪木戦を承諾したが、その後を受けにしたため、結局対戦は実現しなかった。 猪木監禁事件 [ ] (昭和57年)2月27日、東海支部長とともにフルコンタクト空手の団体「空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。 同年、のにより猪木が監禁される事件が起こった。 梶原は、関係者を使って猪木をのの一室に呼び出し、を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。 後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時のキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。 「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。 ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。 IWGP立ち上げと世代交代 [ ] (昭和58年)には世界統一タイトルを目指しを立ち上げる。 しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のからロープ越しのを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打ってを起こし、失神KO負けを喫した(詳細についてはの項を参照)。 この頃、猪木が自身のビジネス(「」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のやの退団騒動につながって行く。 (昭和61年)6月にはプロボクシング団体と業務提携開始。 (昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。 そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、とを敢行。 (昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か? 」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。 猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していたがテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。 これが猪木最後のIWGP挑戦となった。 引退 [ ] (平成6年)5月1日、でと対戦し、フォール勝ちを収める。 この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。 (平成7年)4月で猪木は当初、前年46歳の誕生日数か月前にWBA・IBF世界ヘビー級王座獲得したとの対戦を希望したがフォアマンは「とんでもない。 北朝鮮になど行かない。 俺は第一に愛国者、第二にボクサーだ。 わが国が北朝鮮と外交関係を持っていない以上、俺がそこに行くなんてありえない」と拒否。 1974年で最初に世界王座君臨していたフォアマンをKOして世界王座奪取し1976年猪木と対戦したアリが来賓として参加、猪木自身はシングルマッチ 20分1本勝負に完勝。 12月30日、にて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。 (平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したフォアマンが来日し、で行われた世界ヘビー級王座戦で判定勝ち。 猪木はと共にTBSテレビの解説を務めた。 (平成10年)、内ののジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日でと、4月4日における引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われたで、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利しした。 引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。 この「道」のセリフは、後に盛んにらがものまねの対象にしている。 (平成14年)8月28日に行われた「」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのに挑戦。 への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。 (平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。 (平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51. 以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。 (平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体の世界大使に就任。 IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務めるを結成。 同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜 」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。 (平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「 ( IGF)」を発足、6月に両国国技館にて旗揚げ戦を行った。 娘婿であるも社長を辞職、IGFへ合流した。 道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。 にも出演しプレイしたりを叩いたりする。 (平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた対戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。 (平成22年)2月1日、は猪木の(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。 WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである。 理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。 インダクター(プレゼンター)は。 猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、にて行われた。 猪木は翌日にアリゾナ州ので開催されたにも登場し、観衆からの祝福を受けた。 2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。 2011年(平成23年)12月31日、「」を開催。 2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「」を旗揚げ。 (平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される。 、自身がプロデュースする新イベント「ISM」の旗揚げを発表。 「ISM」の収益金については、自身の師匠の一人であるゴッチの墓を日本国内に建設するための費用とする。 一方でIGFに対しては、既に運営から手を引いていることと「会社を整理する方向で考えている」との方針を明かした。 これに対しIGF側は、猪木が役員は退いているものの依然同社の大株主の一人であるとして、団体存続を目指す方針を訴えている。 同月にはIGF側が猪木の夫人に対する不当利得返還請求の訴訟を起こすなど 、一部の問題は法廷に持ち込まれていたが、最終的に2018年3月に猪木とIGFとの間で和解が成立し、猪木は所有するIGFの全株式を第三者に売却してIGFとの関係を断った。 2017年、での『INOKI ISM. 2』において自身のを行う。 2019年2月19日、『ジャイアント馬場没後20年追善興行』に来場し試合前にあいさつ。 ジャイアント馬場関連イベントに登場するのは初。 リングでの絡みを含めれば1979年の「夢のオールスター戦」以来となった。 政治家として [ ] 政界進出、参議院議員 [ ] 「」を参照 (元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に スポーツ平和党を結成。 に比例区から99万3989票を集めて初当選し、となる (キャッチコピーは「に卍固め、に延髄斬り」)。 史上初のレスラー出身のとなった。 なお、当時は名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いたが大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は)。 政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。 当時は参議院の通称使用が認められていなかったため 、議員活動は本名の「猪木寛至」名義で行った。 (元年)10月14日、の体育館で講演中に暴漢にで襲われ、左の頸部などを負傷。 会場が一時騒然となる中、傷口をで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後にのに入院した。 この時の猪木はので「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。 後日、警察やマスコミなどが猪木に対し、何故、警戒しなかったのかと尋ねたところ、猪木は「過去に講演会やトークショー、様々なイベントで、ファンの人が突然、壇上に上がって握手やサインを求めてきたり、プレゼントを差し出してきたり、弟子入りや新日本プロレスへの入団をお願いしてきた事が何度かあり、今回も近づいてきた男性が暴漢ではなく自分のファンだと勘違いして何も警戒していなかった」と答えた。 10月25日、を組んだの配慮により質問に立った。 湾岸戦争で日本人人質解放 [ ] (平成2年)8月2日、当時下のが突如に侵攻()。 イラクはを含むからの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた41人などを事実上の人質としてイラクに連行・国外移動禁止処分にする。 政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「」を行うことを発表。 はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してをチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でへ入った。 このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。 これを追い風に、その後(平成4年)7月のでも1議席を獲得 (参議院会派で2議席目)した。 落選 [ ] (平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子 およびスポーツ平和党前幹事長のらが、「違反」、「収賄」、「()との癒着」、「会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題」などの問題をするいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。 このうちのいくつか(少女買春など)は完全な捏造であり、特に違反については中にとなり、処分はまぬがれた。 税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分を受けた(官報 [ ]に記載)。 これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員と党の運営を巡って対立。 特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。 また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。 一連の「猪木スキャンダル」もあり、(平成7年)の参議院選挙で落選。 なお、同じ参院選挙ではが副党首を務めた「」も立候補したが 、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。 選挙後、江本は離党した。 なお、スポーツ平和党は2004年(平成16年)4月を以て解散した。 参議院選挙への再出馬、国政復帰 [ ] 2013年6月5日、より、比例代表での出馬を表明。 日本維新の会共同代表の立ち会いの下で開催した記者会見で『猪木の元気を日本のために活かしたい』と国政再挑戦への意欲を漲らせた。 同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同党内最多得票)で当選し 、18年ぶりの国政復帰を果たした。 2013年7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された。 訪朝 [ ] 2013年7月25日からの休戦60年の記念行事に出席。 平壌で最高人民会議常任委員長と会談した。 参議院規則では議員が登院できない場合には議院の許可を得ることとされているが、参議院選挙の比例区で当選した後ではあったものの前任の参議院議員の任期満了が7月28日であり未だ民間人なので問題はないと説明されていた。 その後、北朝鮮のスポーツ教化委員長であったの打診を受け、10月下旬に再度訪朝の意向を示した。 10月31日の理事会は「必要性がない」として渡航不許可を決定。 しかし、不許可は不合理と反発して11月に入って実際に訪朝が実行されたため、参議院議院運営委員会理事会は処分を含めた対応を検討。 11月13日の参議院でが可決されに付託して処分の是非や内容を審査することとなった。 懲罰委員会からは弁明の機会が与えられていたもののこれを拒否し、11月20日の懲罰委員会理事懇談会の協議で登院停止30日の処分内容が決定され、11月21日の懲罰委員会でこれを全会一致で可決、11月22日の参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された。 また、維新から党としての処分として、党員資格と党副幹事長職それぞれ50日間停止を言い渡された。 さらに猪木を招待した張成沢がにされ、された。 そしてにを受け、即日処刑された。 猪木は張の処刑について聞かれ、「よく分からない。 北朝鮮も神経質になっているときなので余計なことを話さず、言葉を控えたい」と答えた。 しかし、訪朝時に打診した国会議員団訪問の受け入れは、北朝鮮側から「約束はまったく変わらない」と返答があったという。 猪木は、理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に設立した事務所を通じた交流活動についても「変化しない」と述べた。 2014年1月13日 - 16日にかけ、北朝鮮に訪問した。 猪木の訪朝はこれで27回目となる。 2014年4月には同じ維新の会の、、()、()の4議員とともに中の再度の訪朝を計画した。 維新の会は党として許可した ものの、政府として北朝鮮に対して渡航自粛勧告を通達するなど制裁発動中であることを理由に自民党からの自粛要請に逢い 、渡航に必要な衆参両院の許可が得られる見込みがなくなったとして最終的に断念した。 同年6月、の閉会を待って再度の訪朝計画を発表(国会会期中以外の海外渡航は議員が所属する各院の許可が不要であるため)、これに対しては7月7日の定例で、政府が北朝鮮へのを一部解除したことを踏まえ「渡航で特段の措置を取ることはない」として反対しない方針を表明 、7月9日、猪木と上記の4議員にの参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、内の各施設やなどを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問であるの書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った。 次世代の党への参加と離党 [ ] 2014年8月1日の日本維新の会分党に際しては共同代表を支持するグループ「」に参加。 党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。 しかし、2014年12月12日に離党届を提出した。 日本を元気にする会への参加と解散 [ ] 2015年1月8日に政党「」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。 2015年1月21日に受賞者のとイギリスで面会し同氏の日本訪問を要請、同氏はこれを受諾した。 2015年9月17日のの採決では所属するが直前で賛成に転じたため。 自らも賛成票を投じたが、数日前に反対派団体に「慎重な審議を要求したい」という書簡を出していたために、物議をかもした。 2016年6月2日、日本を元気にする会代表のの辞任と共に、猪木の代表就任が報じられた。 2016年7月27日に会派「日本を元気にする会・無所属会」は解散し、猪木は会派「」に異動した。 2月25日にの院内会派である「国民民主党・」に入会した。 政界引退 [ ] 2019年6月5日、に出馬せず引退する意向を表明した。 不出馬の理由は高齢であることや選挙に向けた野党間協定に対する思い等があることを述べた。 プロレス [ ] 主な戦績 [ ]• (昭和35年)9月30日、デビュー戦で(金一=キム・イル)に逆腕固めで敗退。 (昭和36年)5月25日、と初対決、で敗退。 (昭和39年)3月12日、海外武者修行の初戦において、にてと対戦(猪木のセコンドに付いていたの乱入で反則負け)。 以降、2年後の旗揚げに伴う帰国まで、、、、、、、、などと対戦。 (昭和41年)• 10月12日、の旗揚げ戦においてに勝利。 11月19日、ジョニー・バレンタインを破り、USヘビー級王座を獲得。 初のシングル王座戴冠を果たす。 以降、バレンタイン、、らを相手に防衛戦を行ったが、東京プロレスの崩壊に伴い王座は消滅。 (昭和42年)• 以降、馬場とので活躍。 (昭和44年)• 5月16日、を破り、初優勝。 12月2日、のに挑戦、60分時間切れ引き分け。 (昭和46年)3月2日、を破り、を獲得。 以降、フレッド・ブラッシー、、フリッツ・フォン・エリック、を相手に防衛戦を行ったが、日本プロレスからの除名に伴い同年12月13日にタイトルを返上。 (昭和47年)• 3月6日、の旗揚げ戦においてに敗退。 10月4日、カール・ゴッチを破り、世界ヘビー級王座を獲得。 (昭和48年)• 12月10日、を破り、世界ヘビー級王座獲得。 (昭和49年)• 3月19日、NWF世界ヘビー級選手権試合でと対戦、大物日本人同士の対決が話題となった。 で勝利。 4月26日、坂口征二と初対戦。 30分1本勝負で時間切れ引き分け。 5月8日、を破り、初優勝。 6月26日、と対戦し、腕を折る。 10月10日、NWF世界ヘビー級選手権試合でと対戦、13分13秒でからフォール勝ち。 (昭和50年)12月11日、NWF世界ヘビー級選手権試合でと対戦、60分時間切れ引き分け。 (昭和51年)• 2月6日、柔道無差別級金メダリストのと初の異種格闘技戦。 バックドロップ3連発で勝利。 6月26日、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのと対戦、15R引き分けに終わる(参照)。 10月7日、と格闘技世界一決定戦で対戦、レフェリーストップで勝利。 (昭和52年)8月2日、のWKA世界スーパーヘビー級王者(エベレット・エディ)と対戦、KO勝ち。 (昭和53年)• 5月30日、アンドレ・ザ・ジャイアントを破り、初優勝。 11月25日、のにてと対戦、判定負け。 (昭和54年)• 11月30日、に勝利。 日本人初、獲得(王座はのちに返上)。 (昭和55年)• 2月27日、熊殺しのと対戦、ドクターストップの無効試合となった。 9月25日、と対戦、逆でフォール勝ち。 (昭和57年)11月4日、(、、)と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。 (昭和58年)• 5月27日、第1回IWGP決勝リーグ戦でと唯一のシングル対戦、フォール勝ち。 6月2日、第1回IWGP決勝戦でと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。 11月3日、維新軍との4対4綱引きマッチでと対戦、フォール勝ち。 (昭和59年)6月14日、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。 (昭和60年)• 4月18日、と初対戦、両者リングアウト。 (昭和61年)• 2月6日、代表のと対戦、勝利。 6月17日、アンドレ・ザ・ジャイアントから世界初のギブアップ勝ちを収める。 (昭和62年)• 3月27日、での「INOKI闘魂LIVE Part2」の戦にが乱入。 観客が暴動を起こす。 10月4日、マサ斎藤と「」を行う。 2時間5分14秒の死闘の末勝利。 12月27日、の刺客、と対戦し、2分49秒で敗れる。 再三のカード変更と猪木の敗北に観客が、大阪城ホールに続き暴動を起こす。 (昭和63年)7月22日、と対戦、フォール負け。 (元年)• 4月24日、「格闘衛星闘強導夢」と釘打ち、プロレス初の大会で柔道ミュンヘン五輪金メダリストと異種格闘技戦。 裏投げを食らい、左肩を脱臼し(異種格闘技戦初の)敗北。 5月25日、と大阪城ホールで再戦し、ギブアップ勝ちを収めている。 この試合で初めて「1、2、3、ダー! 」を披露。 (平成4年)1月4日、と対戦、卍固めで勝利。 (平成6年)• 1月4日、と対戦、で敗れる。 5月1日、でと対戦、フォール勝ち。 この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。 (平成10年)4月4日、「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がったと引退試合で対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利。 通算成績 [ ]• シングル戦 - 612勝41敗50分• タッグ戦 - 1466勝104敗130分 獲得タイトル [ ] NWAビッグタイム・レスリング• :4回(第13代、15代、17代、18代)• : 1回 新日本プロレスは公式に認めているが、管理権を持つは現在認めていない• WWF世界マーシャルアーツヘビー級王座:2回(初代、3代)• :1回(第4代)• USヘビー級王座:1回(を破り獲得したタイトル)• :1回(第6代)• 優勝:1回• 世界ヘビー級王座:1回(第2代)(が所有していたタイトル。 前身は版の)• :1回(初代)• :2回(第2代、3代)• (新日本プロレス版)優勝:2回• 優勝:1回• 優勝:4回• 優勝:4回• WCW殿堂• 得意技 [ ] フィニッシュ・ホールド(必殺技) [ ] (アバラ折り:アブドミナル・ストレッチ) 日本プロレス時代に頻繁に使用した技。 など他の使い手が増えたことから必殺技としての説得力が薄れ、卍固めをフィニッシュとして使うようになる。 猪木のコブラツイストは他人を滅多に褒めることの無かったも絶賛していた。 (オクトパス・ホールド) アントニオ猪木の代名詞的な技。 コブラツイストに代わる新しい必殺技として使い始め、卍固めという名前は一般公募により名づけられた。 別名アントニオ・スペシャル。 運動中枢であり、人体の急所である延髄をジャンプして蹴る技。 これも猪木の代名詞的な技である。 (岩石落とし) 日本プロレス時代は抱え上げ式を主に使っていたが、以後「ヘソで投げる」と表現される式バックドロップを使用。 (原爆固め) 日本プロレス時代にから体得した技。 戦で放ったときは勢いがつきすぎての際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になった(この時のジャーマンはで必殺技として収録されている)。 ルー・テーズとの戦でフィニッシュとして使用していた。 主に晩年に使用された技 [ ] コブラツイストをかけたまま相手とともにマットに倒れ、フォールを取るか関節を極めてギブアップを奪う技。 引退試合のフィニッシュ・ホールドとなった。 (裸絞め) との対抗戦で、を締め落としてから使い出した。 猪木が使用していたいわゆる「魔性のスリーパー」はチョークスリーパーに近いものであった。 その他 [ ] アーム・ブリーカー(腕折り) 相手の手首を自分の肩越しにつかみ、二の腕から腕の付け根にかけて自分の肩に強打する、テコの原理を利用した技。 (昭和49年)6月26日、試合で、相手のに多用し腕を折った。 「なんで逃げないの? 」への答えは、「掌を押え、肘の関節を外に開く方向で力を加えているから、逃げようとするともっと痛い」。 東京プロレス時代にのみフィニッシュとして使用していた投げ技。 との異種格闘技戦で使用したためアリの名がつけられた蹴り技。 自ら仰向けになり相手の脚の側面や裏側を蹴るこの技は、ボクシングとの異種格闘技戦におけるルールの盲点をついた効果的な攻撃であった(立ったまま、あるいは「スライディングキック」で相手の脚を蹴るバージョンもあり)。 アリの脚は試合後、紫色に腫れあがり、ホテルのエレベーターでがっくりと膝をついた、との挿話あり。 以降は相手の足を狙ったローキックは、猪木が繰り出すとアリキックと呼ばれるようになる。 うつ伏せにした相手の交差させた足を極める技。 自分の片足を相手の交差した両足に入れながら、そのまま後ろへ受身を取りダメージを与える。 両手を叩きながら観客を煽り、派手に後ろへ倒れこむ様は、でいうところの大見得であり、アントニオ猪木が逆襲に転じる際の大きな見せ場の一つとなっている。 倒れこんだ状態で相手のアゴを手で捉えブリッジする「」に移行することも多い。 また、足を絡めた状態から「」に移行するパターンもある。 勢いよく振りかぶった拳を相手の顔面(主に額)に叩き込む技。 技を出すときは、片手で相手の髪の毛を掴みつつ何度も繰り出すため、相手の額が割れることもある。 拳骨はプロレスにおいて反則技だが、アントニオ猪木が激高した際に繰り出す定番の技である。 拳を固め、中指のみ突出させて相手の額に打ち付けることもある。 別名「鉄拳制裁」、「弓を引くストレート」。 を引くように思い切り振りかぶる様子から、「ナックルアロー」と呼ばれることもある。 助走無しで至近距離から蹴るのを得意としていた。 全盛期には3回連続で使うこともあったが、試合中盤から反撃の口火を切る際に用いることが多かった。 日本プロレス時代は背面とびが多かったが、新日本プロレス時代ではスクリュー式を多用した。 通常は寝ている相手に対して膝から落ち、ダメージを与える技だが、猪木の場合はトップロープから飛び降り、寝ている相手の顔、または反対方向を向いている相手の後頭部に膝蹴りを繰り出す。 骨法技 [ ] 浴びせ蹴り 「竜巻蹴り」とも称される。 の技の一つとされており、戦前の骨法特訓にて習得。 やが得意とした縦回転ニールキックと混同されることが多いが、軸足を残してバランスを取るニールキックとは、両足を離して宙に浮く点が大きく異なる。 のちにシングルマッチでこの技を食らった天龍源一郎が、我流のアレンジを加えてこの技を継承している。 イノキボンバイエ [ ] 「 イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『 炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』は、元々の伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』()の挿入曲(作曲は)であったが、猪木と対戦したアリから猪木に贈られ 、それをアレンジしたもの。 の必殺技名でもある)が訛ったもの。 アリがコンゴの首都でと戦った際の声援が由来とされる。 またの応援などでも使用されることが多い。 同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌 : アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。 B面には歌詞(作詞:)をつけた「いつも一緒に」(歌:)がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。 歌詞をつけたのはアリ戦後に彼から曲のレコードが家に送られてきた際に、倍賞が提案したからである。 (平成14年)さまざまなバージョンを収録したアルバム「21世紀ヴァージョン 炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」(WBSS-20123)が発売。 (平成18年)韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー、(平成19年)にが同曲を「疾風迅雷 〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーした。 猪木の弟子たち [ ]• 猪木の最初の弟子はであり、日本プロレス時代の付き人であった。 猪木を慕って来た者の中にはその後袂を分かったケースも少なくない。 現役時代に最後の付き人を務めたのは。 猪木最後の愛弟子は第10代UFC世界ライトヘビー級王者であるである。 寛水流空手 [ ] 空手(かんすいりゅうからて)は、(昭和54年)12月1日に空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。 その名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。 現在は正式名称を「 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として東海地方を中心に活動している。 寛水流空手発足の経緯 [ ] 『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が「ルールの無い命をかけた戦い」を申し入れた。 その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。 なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とはプロレスと空手のいかなる技も自由とし、急所攻撃さえ禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。 水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだといわれているが、これは誤りである。 この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。 猪木有利の予想の中、は水谷の実力を冷静な目で判断していた。 そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷のによる目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。 交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。 また猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。 戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め空手を創設した。 水谷は(平成2年)に死去したが、訃報を知った猪木は盟友の早すぎる死に涙したという。 寛水流出身のプロレスラーには、、奥田啓介などがいる。 寛水流空手道の現状 [ ] 2019年5月18日現在、成道会、拳友会、竜成会、天心会の4つの会派と直轄支部道場およびに支部がある。 毎年10月に、NPO法人世界寛水流空手道主催のオープン選手権を、二代目会長・世古典代の生誕地であるで開催している。 尚、参加資格は大会ルールを守れるものであれば「空手・各種格闘技・その他誰でも可。 流派非公開も可」と広く門戸を開放していることから,選手権には60流派、約800名の選手が参加し、東海地方で最も大きな空手大会の1つとなっている。 また、大会には名誉会長であるアントニオ猪木をはじめ寛水流出身のプロレスラー・、、角界に進んだなどがゲストとして参加し、開会式のアントニオ猪木による「1、2、3、ダァー」は恒例行事となっており会場は大変な熱気に包まれる。 寛水流空手道の役員 [ ]• 相談役 北村孝嗣• 会 長 森山幸則• 会長代行 吉村隆秀 (竜成会会長)• 副会長 長谷川昌宏 (天心会会長)• 副会長 波田賢功 (拳友会会長)• 副会長 黒川浩伸 (成道会会長) 政治 [ ] 略歴 [ ]• (元年)、「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。 同年に行われた第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選し、史上初のレスラー出身の(=参議院議員)となり、「猪木チャリティーテレホン」(ダイヤルQ2)など様々な政治活動を行った。 は "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。 「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。 から・をはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い率いるに預け「映画『』の世界を現実化させる」と謳い、日本でプロデビューする道を拓いた。 現在は薬師寺ボクシングジム後援会名誉会長としてを支援している。 同時にソ連のアマチュアレスリングのトップ選手・なども新日本プロレスでプロデビューさせた。 前夜ににより、状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。 なお、でもイベント「(と対戦し勝利を収めている)」を開催した。 翌(平成8年)春、自身は落選し前議員ながらを協栄ジムからプロデビューさせる道を拓いた。 (平成4年)7月に実施されたには、比例代表候補として元のプロ野球解説者を擁立。 当選し参議院会派で2議席目を獲得。 猪木は第8代・初代会長のに可愛がられ、福田の実弟のが猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で第19代自民党総裁・清和会第4代会長とも親交が深い。 は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも務めていた。 (昭和60年)、新国技館()の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。 いわゆる「猪木スキャンダル」によって、(平成7年)の参議院選挙で落選する。 同年に突如江本副代表から党の運営を巡って対立する。 特に党運営に関わる金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。 江本孟紀副代表は離党し無所属になってしまい、元公設第1秘書(借金問題で一度は解雇された)だった、実兄である(・パブロ猪木)が党首(代表)に就任。 その後スポーツ平和党は主立った政治活動を行わなくなり、(平成19年)3月には公式サイトを閉鎖。 既に政治団体解散届を総務大臣に提出している。 (平成25年)にでから比例代表で出馬し当選。 国政復帰した。 翌年の日本維新の会分党時にはグループ()に参加したが、(平成27年)に離党しの結党に参画した。 (平成28年)の会派「日本を元気にする会・無所属会」解散後は会派「」に異動した。 イラク在留邦人人質解放までの真相 [ ] (平成2年)が危惧される中、の大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。 その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。 解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木は、被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント" "を行うため、バグダードに向かうということを決断する。 猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否。 すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。 そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いという意味です」と猛烈に反対した。 イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。 (平成2年)11月、猪木は日本の各にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。 やむなく猪木は、の会場で当時の駐日トルコに懇願したところ チャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりの協力でバグダード入りが可能となった。 (平成2年)12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。 この時サッダーム・フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。 イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。 焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「 大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。 猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄 と対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介された。 その後パキスタン人ジャーナリスト、の計らいにより4度パキスタン遠征を行い、パキスタンでは毎年は猪木の日として登録されている。 東京都知事出馬と撤退 [ ] に、かつてのニュースキャスターだったが出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか? 」と聞かれ猪木が「彼(磯村)には、かつて『』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。 その後スポンサーの会長、及び経験者で創始者やその愛弟子及びに説得され、出馬を断念し磯村と政策協定を結んだ。 出馬断念に至る裏には、数千万円の現金が動いたとの証言があり、の激闘の永田町にスクープを書いた菊池久を名誉毀損と約300万円の損害賠償を求めて民事提訴し、マスコミを賑わせたが、判決は領収書の所在が不明との判断で金銭授受を否定して菊池側の敗訴となった。 地裁判決には、猪木と新間寿も出廷していたが、判決後には猪木が菊池久に対して『もう少しうまく話し合いが出来ればねえ』と余裕の表情で語っていた。 なお、猪木の出馬撤回に触発されが出馬している。 参議院落選まで [ ] (平成7年)参議院出馬するが、(平成5年)に [ ]元公設第1秘書とスポーツ平和党前幹事長に告発された「政治資金規正法違反の問題」「賄賂の問題」「右翼(日本皇民党)との癒着問題」「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板問題」「税金未納問題」、「女性問題」、「拳銃密輸及び拳銃所持疑惑」などのスキャンダルが発覚。 政治資金規正法違反については時効となり、処分はまぬがれたがこの影響により落選。 数多くのスキャンダルに対して猪木本人は完全に否定した。 朝鮮半島問題との関わり [ ] 師匠の力道山が韓国を訪問していたことを知った猪木は、参議院議員時代の(平成6年)9月に金容淳の招きで初めて北朝鮮を訪問し、何人かの要人と力道山の娘に会った。 その後、30回以上北朝鮮を訪問している。 猪木はのインタビュー記事で、日本の政治家たちは北朝鮮問題に先入観を持っており拉致と制裁以外に何も言わない。 戦前、戦後の知識を持たないため相手を理解せず日本の基準で判断して主張する。 それでは相手と衝突するだけで何も進まないと批判している。 拉致担当大臣が直接北朝鮮に行って対話と交渉をすべきで、国力の優位を利用して落ち着いた寛大な外交をするべきと主張し、「スポーツ交流を通じて世界平和を」を理念に国家間の話し合いのきっかけになっていきたいと語っている。 2013年7月に26回目の訪朝をして北朝鮮政府の要人と会談をした猪木は、帰国後に日本外国特派員協会で記者会見を開き、被害者名簿の信頼性や拉致問題を国際社会に訴えて解決することについて疑問を抱いていること、「拉致が解決したら、我々は幸せになれますかね?」と発言して独自の見解を示した。 ただし、の解決に否定的なわけではなく、2015年2月号のインタビューでは「拉致問題担当大臣が10人以上も代わっているようでは、北朝鮮側もまともな交渉をすることはできない」「必要があるのなら、朝鮮労働党幹部と信頼関係を築いてきた私をいつでも使えば良い。 選挙で拉致問題のパフォーマンスをしている議員とは違い、自分は命がけでやる」とし 、2016年9月の31回目の訪朝中には現地の日本人女性3人と接触し「八十何歳とお年を召されている。 そういう方々の『故郷に帰りたい』という夢を実現させたい。 帰国できるように呼びかけていきたい」とも述べている。 2016年5月に行われたにてが党委員長に推戴されたことを受け、祝福の花かごを贈っている。 なお、猪木の姿勢は時に国会議員からも賛否両論が飛び交うこともある。 事業 [ ] 猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。 ただし成功を収めたものはほとんど無い。 数多くの事業の大半はブラジルに関係することが多く、アントン・ハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進めることに対して美津子夫人(当時)は新間寿に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。 下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。 かつて「」に出演した際、に対して「さんまさん預金いくらあるの? うまい儲け話があるけど投資してみない? 」と誘っていたが、さんまはやんわりと拒否している。 アントン・トレーディング [ ] 「アントン・トレーディング」という貿易会社を設立。 この会社は一時日本国内での(マキルヘニー・カンパニー)の販売権を持っていたことがあるが、別件で借金を抱えたため手放している。 当時はまだタバスコは一般的ではなく、その後激辛ブームや宅配ピザが広まり需要が大幅に伸びた。 また、「タバスコを最初に日本に持ち込んだのは猪木」と言われることもあるが、事実ではない(の項参照)。 また、新日本プロレスの興行を多数開催していた。 アントン・フーズ [ ] のチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。 そのほかにも「」やスナック菓子「アントンナッツ()」を販売。 ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。 アントン・ハイセル [ ] ブラジル政府を巻き込んだ国際的なプロジェクト「アントン・ハイセル」((昭和55年)に設立)は、猪木自身にとって生涯最大の事業であった。 これは、ブラジル国内で豊富に収穫できるの絞りかす()の有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをとして使用する計画を進めており、の先駆けであった。 このアントン・ハイセルを開始するにあたって、猪木はの大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ、逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得されるが、猪木はこの事業に傾倒していった。 この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する。 サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかすの弊害、公害問題である。 そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。 また、土中にバガスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させるため、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。 それでも猪木は世界の食料危機問題に対応すべく、バガスの再生飼料を食べた家畜の糞をとして、農業生産の向上と家畜の増産を目指すも、結局は日本とブラジルの気候の違いから発酵処理に失敗する。 さらに追い討ちをかけるように、ブラジル国内のインフレが原因で生産コストはさらに悪化の一途を辿る。 これらの原因により、経営は数年で破綻する。 マスコミ報道によれば、アントン・ハイセルのおよその負債額は数十億円とも言われ、に放送権を担保に12億円の肩代わり(後に、株券と引き換えに佐川急便会長に債権を移動)してもらうがそれだけでは補えず、遂には新日本プロレスの収入の大半を補てんしてしまう。 しかしこれが仇となり新日本プロレスでは初代タイガーマスク(佐山聡)や長州力などスター選手をはじめ13名もの選手が大量離脱するなど当時クーデターと言われた騒動が起き、やがて猪木の社長解任劇に発展する。 山本小鉄などの動議により猪木代表取締役社長と坂口副社長は解任されテレビ朝日の社員が役員に就任したが、両者とも混乱の終結と共に数か月後に復帰した。 なお、ブラジルではサトウキビからを抽出するバイオ燃料事業は環境対策や(平成17年)以降の高騰などから、内容が見直され積極的に行われている。 後日、猪木はアントン・ハイセルに対して「ブラジルの様々な偉い人から騙されていた」とコメントしていた。 永久機関 [ ] INP技術研究所。 同社は「」用発電機を開発していたが、途中から「高効率モーター」に変化している。 研究開発には莫大な資金を投じ、新日本プロレスの経営にも悪影響を及ぼした。 2002年にマスコミ関係者(スポーツ新聞やプロレス雑誌の編集者)を集めて永久電気の発表会を開いたことがあったが、実験は失敗に終わった。 猪木の弁明は「ネジを一本締め忘れた」というものであった。 アントニオ猪木酒場 [ ] ・に(平成18年)、居酒屋「アントニオ猪木酒場」を開店した。 「を見ながら食べたメニューを再現する」がうたい文句の居酒屋で、店内は古きよき昭和の時代をイメージし、常時プロレスが放送されており、プロレスにあやかった名がついた料理がメニューに並ぶ。 なお実際の店舗運営は、IGFのスポンサーでもあり、などを傘下に収める外食産業大手のが行っており、猪木は経営には関与していない。 ジー社は同ブランドのフランチャイズ展開を進め、沖縄・仙台・千葉・福岡・広島にも進出していたこともあるが、いずれも閉店。 2016年(平成28年)6月現在、新宿店(2008年開店)が営業を続けている。 同店ではトークショーやの公演が行われており、猪木本人もときおりイベントで来店している。 2020年7月16日、新宿店が同年7月31日をもって閉店することが公式サイトより発表された。 その他 [ ]• 「サンダリッパ」や「とうふパン」のプロデュースも手掛けた。 闘魂スナック監修(2010年)• 頃、を運営していた。 エピソード [ ] プロレス [ ]• 日プロ入門当初、はを経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、デビュー前から給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。 例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。 しばしば公衆の面前で殴られて恥をかかされた経験や日常的に「あご」「こじき野郎」と罵られた事実も後年に伝わっている。 それでも力道山が死去する前日に参加していた宴席に呼び出された際、元横綱・(当時既に引退して年寄・高砂となっていた)が猪木の飲みっぷりを見て器の大きさを評したその横で力道山が嬉しそうな顔で頷いた姿を見て「自分への期待が初めて分かった。 あの顔を思い出すと、それまでの恨みがすべて晴れた」と感じたといい、「オレは勝手に、あの時の師匠の顔は『今後のプロレス界を頼んだぞ』という遺言というか、メッセージだったと受け止めている」とまで受け止めるようになった。 自身が力道山から理不尽な扱いを受けていたことから、東京プロレスを旗揚げした時にはレスラーが目下の人間をいじめるようなことは絶対にさせないと誓った。 東京プロレス時代、給料の少なさを人のせいにして新間寿をリング上で袋叩きにしてやろうと企てた若手一派を諌めたこともある。 過去にテレビ番組「」内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内でと対戦している。 なお「ハンマープライス」で猪木との試合権を購入したのは文学部教授である(リングネームは「ゾンビー諸富」)。 「延髄斬り」は海外マットでも enzuigiriと呼称され、名詞として定着している。 猪木は1961年5月から1963年10月まで馬場と16回対戦したが、16戦全敗で一度も勝てなかった。 袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されており、公私は別にしていた。 は、1979年の「夢のオールスター戦」の控室で、両者がの話題で談笑していたことを証言している。 プライベートでは「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合う仲であった。 馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本の加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。 また、猪木が自らのであったを馬場に紹介し、佐川宅を二人で訪れて統一コミッション設立に向けた計画を話し合うなど、利害が一致する場合は両者は積極的なビジネス関係を結んでいた。 猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジ、黄色、赤、グリーンのショートタイツを着用していたこともある。 新日本プロレス時代にも茶色、1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で師:力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあり、この時のロングタイツはのものを借りたという。 猪木のもう一つのトレードマークに「赤いタオル」がある。 これは現役時代、リングガウンを着る際に赤いタオルを首に巻いていたことによるもの。 その名残か、プロレスを引退した後の猪木は首に赤いマフラー(ストール)を巻いて行動することが多く、すっかりおなじみのスタイルになっている。 で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。 力道山は、角界と関係修復を図る際、『猪木を一度に入門させ、になったらプロレスに復帰させる』という計画を持っていたが、猪木自身はこのことを知らなかった。 ミスター高橋によると、本当に猪木がリング上で失神したのは、1986年10月3日に後楽園ホールで行われた戦だけであるとのこと。 アゴ [ ] その特徴的な尖ったアゴは猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させた。 は「スリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と語っている。 モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「 オレのアゴは尖っているからそれだけ強い」と、自分のアゴをアピールした。 金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。 また、アメリカでタッグを組んだことがあるは、「猪木のアゴはジャーマン・スープレックスの際に相手の背中に引っ掛かって邪魔になるから、綺麗なジャーマン・スープレックスにはならない」と語ったことがある。 かつて前妻の倍賞美津子が「」に出演した際に、猪木の顎の深さを図ろうと、寝ている間に口を開けて、中指と薬指の2本を入れてみたら全部入ってしまった、と語っている。 猪木信者 [ ]• 力道山も馬場も、その支持者は「ファン」であるが猪木のファンは「猪木 信者」である。 猪木信者の代表的な人物は、、、、、など多数に上る。 信者は猪木のことを「会長」または「先生」と呼ぶのが特徴。 は、サッカーアジア杯で優勝した際に「1! ダァ〜! 」を行っていたが、その姿を見た彼の妻に「今度猪木のマネをしたら、離婚する」とまで言われたという。 和田はでを勝った時には「ダァ〜! 」(1! は無し)を、同年のでは「1! ダァ〜! 」を行った。 桑田佳祐は著書で「プロレスラーで一番イイ男はアントニオ猪木。 プロ野球で一番イイ男は。 怪獣ならやっぱり」といった発言をしており 、のライブの際、ライブ終了後に「1! ダァ〜! 」をやるのがかつてのお約束であった。 また、ダァ〜! ばかりか桑田はライブが佳境を迎え盛り上がると、何度となくアゴを突き出しファイティングポーズを取っていた。 の担当だったも、退社後に、実は猪木信者であることをした。 は『これだけは知っておきたい 世界の宗教 知識と謎 80』において、「 イノキイズム」を「わが国において、宗教を超え、もっとも信仰を集めている思想」と評価している。 闘魂ビンタ [ ]• 国会議員当時の(平成2年)5月16日、での講演(題目「に卍固め」)で、予備校生のを腹部に受ける余興を行った。 その中の予備校生一人は、実はの有段者であり、力を込めて殴った。 この不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にを打ってしまった。 予備校生は猪木ファンであり、ビンタを受けた直後に「ありがとうございました」と一礼した。 この様子は、テレビカメラにより録画されており、全国に流れた。 その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。 このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた。 その後も有名になり、女性の有名人までもテレビ番組中に闘魂ビンタ(近年は 「闘魂注入」と表されるケースが多い)をねだるまでになっているが、(平成18年)のテレビ番組で語ったところによると、最近は闘魂ビンタをあまりやりたくないとのこと。 また、国際線のスチュワーデスから「闘魂注入ビンタしてください」と頼まれ、飛行機の中でしたと猪木自身もインタビューで語っていた。 一時期若い女性ファンからビンタでは無くキスして欲しいとせがまれ、その後他の女性達も次々と並びだて、キスをせがむ現象が起き、それを 「闘魂注入キス」と呼ばれていた。 なお試合以外で一般人に初めてビンタを見舞った相手は当時テレビ朝日アナウンサーのである。 1990年2月10日東京ドーム大会において、アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋戦の試合前の控室で、『ワールドプロレスリング』のリポーター担当として「もし負けるということがあると、これは『勝負は時の運』という言葉で済まないことになりますが」と質問した佐々木に対して激怒し、「出る前に負けること考えるバカいるかよ! 」と言った後にビンタを見舞ったのが最初であると言われている。 その他 [ ]• 新日本プロレスの社長を務めていたある頃まで、に「社長は」と陰で揶揄されるほど寡黙で何を考えているか分からない暗い性格であったが、自己啓発セミナーに通ったのをきっかけに明るく社交的になった• 猪木は1967年に日本プロレスに復帰した直後に、に在った歌手のの邸宅を購入、1972年に新日本プロレスを旗揚げした際にはこの世田谷の猪木邸を新日本プロレスの道場兼合宿所に大改造した。 20年ほど前、テレビ番組にて司会者から身長を聞かれ、「昔は189位あったんですけど、今はちょっと縮んで186位」と答えている。 公称身長は191cm。 なお、中学校に入学した時点で身長は既に180cmあったという。 現役当時は 189cm位だったんですよ。 今はどうでしょうか?182がぎりぎりじゃないですかね。 骨と骨の間のクッションが全部縮んでますからね。 膝も全部……」と答えている。 (昭和61年)にアントニオ猪木との娘である猪木寛子がミュージカル『』のアニー役で主演を務めており、ダブル主役の片割れは。 現在、猪木寛子は、猪木が運営していたインターナショナルスクールの生徒だった前社長のの妻である。 よく大量の氷を入れた水風呂に入る。 のちに猪木自身が語ったところによるとこれは「で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」だったらしい。 医師は「とんでもないことだ」と驚愕し、「普通の人間は真似してはいけない」と語っている。 「愛読書は」と語っている。 ある日、から1万円を借りたがそのことを忘れてしまった。 当時若手だった古舘にとって1万円は大金であったが、相手は大スターであり、なかなか言うに言えず困っていた。 ところがある日、猪木は急にそのことを思い出し、「いや〜、ごめんごめん」と30倍にして返した。 」は登録されている(登録商標としての表記は「 1・2・3・ダァーッ」)。 この登録商標を使ったラーメンが「 1・2・3・ダァーッ麺」という名で発売されている。 ちなみに猪木の「1! 」が商標登録されていることは(平成16年)3月3日のフジテレビの『トリビアの泉』で紹介された。 なお、「ボンバイエ」、「猪木イズム」、「闘魂」も商標登録されている。 とにアントニオ猪木の名前がつけられた「猪木アイランド」と呼ばれる無人島を所有している。 2島ともキューバのから贈られたもの。 元の島名からイソラ・アミーゴ・デ・イノキ(友人猪木島)と改名され、猪木は休暇の際に利用しているという。 キューバ本島からかなり離れたカリブ海に浮かぶその島は、まわりを珊瑚礁に囲まれた平坦な島で、海面が上昇すれば海に沈んでしまいそうな島である。 島の周りは白砂のビーチで海水は透きとおり美しく、背の低い木、草がはえている中にイグアナがいる。 渡米時代アメリカ人の女性リンダと結婚し1児をもうけるが(誰が)死亡している。 その後、と1億円の結婚式を挙げて当時の話題になった。 離婚後、22歳程離れた妻と3度目の結婚、離婚。 その後、16歳年下の妻と4度目の結婚をした。 4人目の妻は猪木の肖像権、商標権、著作権管理をするマネジメント会社の副社長を務めていたが、2019年8月に死別している。 (昭和59年)発表((昭和58年)度)のいわゆる長者番付でプロスポーツ部門で1位(納税額8,268万円)になる• が熱心なプロレスファンだったことが縁で空襲で焼失した(、力道山の墓所が在る寺である)の仁王像再建の際、モデルを依頼され快諾。 数十枚の写真撮影を行いこれをもとに仁王像が作られた。 仁王像は近年修復され、本殿に安置されている。 ホームレスの人たちに食べ物を配るなどしてボランティア活動も積極的に行っている。 自身も「俺はアメリカにしか家がないから日本ではホテル住まいだ。 実質、日本ではホームレスだな」と語っている。 年末になると炊き出しを自ら行い、9回目となる(平成21年)では新宿の前で行い2000人が集合、猪木のモノマネをするらも参加し手伝っている。 好物は。 オランダの柔道家との異種格闘技戦の際、「私はチーズを食べているから強い」とするルスカに対し「俺は納豆を食べて強くなった」と発言したところ、納豆協会から表彰された。 最低でも100回以上はコネ回し(アミノ酸やコラーゲンが出るから)、醤油ではなくをかけて食べるという哲学がある(『闘魂レシピ』より)。 他にはに水揚げされたを好む。 「最後の晩餐」は、ふぐとブラジリアン・コーヒーを用意して欲しいと言う(『闘魂レシピ』より)• 39歳の時、糖尿病で血糖値が一時596にまでなったが、自然治癒で血糖値180まで下げ44日後にはカムバック戦を行った。 インスリン注射の力で治すのは自分の哲学に反すると言っていた。 その間の主食は主にキャベツであった(どんぶりにキャベツの千切りを平らげていた)。 1970年12月20日(現地時間)、猪木は渡航先のブラジルの密林でに噛まれるというアクシデントに遭っている。 この時期、猪木はトレーニングと『アントニオ猪木、ブラジルの秘境を行く』と銘打たれた映画撮影のために渡航していた。 猪木らはブラジル空軍や陸軍などの協力 を得て、国境に近い密林に入っていたが、猪木は猛毒を持つ(ジャララカ)に左足の付近を噛みつかれた。 幸いにも、軍隊がを携行していたことや、ヘリコプターなどでサンパウロ市内の病院に迅速に搬送されたことで、猪木は九死に一生を得た。 その後、驚異的な回復力で同月23日には退院し、同月30日には日本へ帰国。 翌1971年1月4日のシリーズ開幕戦から予定通り、出場している。 2度目の参議院議員となった後の2015年2月6日、参院決算委員会で質問に立った際、の「元気ぶり」について言及し「私も健康には気をつけているが、首相がなぜ『元気なのかなあ』と私なりに分析をしたんです。 国会答弁で立ったり座ったりを繰り返すから、首相も鍛えられているのではないかなと。 私も若いころは師匠のに屈伸運動を1000回、2000回とやらされました」と発言した。 猪木語録 [ ] 「」を参照 ポエム [ ]• (ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。 「この道を行けば…」という詩 を自らの引退試合で引退メッセージとしてファンに贈った。 これは以後新日本プロレスの道場訓となった。 このセリフは後のの楽曲、『』の最後の部分に引退の際のメッセージが音声そのままで収録されている。 これはが是非引用したいと、本人に許可を得て実現したもの。 その他 [ ]• - (平成20年)の、オープニングに登場。 で観客と「1・2・3ダー」をした。 東海・関西版(東海地方・北陸地方・近畿地方・山口県以外の中国地方・四国地方向けの新聞)コラム・「猪木のコトバ」(水曜日テレビ面)• - (平成21年)の、プレゼンターゲストとして登場。 観客や勝利馬・関係者と「1・2・3ダー」をした。 - (平成22年)6月26日の対戦において、「同じ場所で一斉に乾杯した人数」ギネス記録に挑戦した際、乾杯の音頭を務める。 その結果、ギネス記録を更新(27,126人)。 著書 [ ]• 『プロレス百科』アントニオ猪木 監修、 絵、集英社〈まんが版入門百科〉、1971年。 『燃えよ闘魂 アントニオ・猪木自伝』東京スポーツ新聞社〈Tsupo books〉、1975年。 『格闘技世界一』ベストセラーズ〈ワニの豆本〉、1978年。 『勇気 炎のメッセージ!』スポーツライフ社 出版 批評社 発売 、1981年3月。 『新 燃えよ闘魂 アントニオ猪木自伝』東京スポーツ新聞社、1981年7月。 『苦しみの中から立ちあがれ』シャピオ 出版 みき書房 発売 、1983年2月。 『男の帝王学 闘魂革命』 監修、ワニブックス、1990年6月。 『最後に勝つ負け方を知っておけ 思ったことを面白く実現してしまう』青春出版社〈プレイブックス〉、1990年9月。 『闘魂記』集英社、1990年9月。 『たったひとりの闘争』集英社、1990年12月。 『心の叫び』世界文化社、1991年8月。 『アントニオ猪木議員の闘魂ハイスクール』未来出版、1992年1月。 - 奥付・表紙の書名:『アントニオ猪木の闘魂ハイスクール』。 『アントニオ猪木vsターザン山本 命懸けの対談』アントニオ猪木・ 述、紙のプロレス特別編集委員会、1994年4月。 『闘魂伝説の完全記録 プロレスラー・アントニオ猪木』vol. 2(1972〜1975)、アントニオ猪木 責任編集、パラス 出版 有朋堂 発売 、1996年10月。 『猪木イズム』サンクチュアリ出版 出版 星雲社 発売 、1998年4月。 『猪木寛至自伝』新潮社、1998年5月。 『アントニオ猪木自伝』新潮社〈新潮文庫〉、2000年3月。 - の増補版。 『不滅の闘魂』海鳥社、1998年11月。 『猪木語録 闘魂伝書世紀末篇』アントニオ猪木 述、"Show" 監修、メディアワークス 出版 角川書店 発売 〈オルタブックス〉、2000年10月。 『猪木詩集「馬鹿になれ」』角川書店、2000年10月。 『猪木詩集「馬鹿になれ」』角川書店 出版 角川グループパブリッシング 発売 〈角川文庫 16466〉、2010年9月。 - の増補版。 『格闘魂』アントニオ猪木 責任編集、角川書店〈Kadokawa mook〉、2000年11月。 『俺の魂』あ・うん、2001年9月。 『もう一つの闘い 血糖値596からの糖尿病克服記』三笠書房、2002年1月。 『非常識』河出書房新社、2002年6月。 『闘魂レシピ』飛鳥新社、2002年12月。 『風車の如く アントニオ猪木の人生相談』集英社、2003年2月。 『あなたの体も危ない! 糖尿病1600万人を救う魔法の杖』PHP研究所、2005年9月。 『元気があれば何でもできる! 』ロングセラーズ〈男のVシリーズ〉、2007年6月。 『猪木語録 元気ですか一日一叫び』扶桑社、2007年12月。 『「父親の背中」の見せ方 猪木式教育論』講談社、2008年4月。 『花が咲こうと咲くまいと生きていることが花なんだ』経済界、2008年10月。 『真実 伝説の戦いを軸に綴る魂のメッセージ』ゴマブックス、2009年5月。 『踏出力。 人間「アントニオ猪木」から何を学ぶのか』創英社、2010年1月。 - 共同刊行:三省堂書店。 『元気ですか!? ニッポン!! 日本を元気にする猪木の言葉』ポプラ社、2010年5月。 映画 [ ]• - 本人役(1978年)• 格闘技 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1979年)• 格闘技オリンピック 四角いジャングル - ドキュメンタリー映画(1980年)• 2010年6月12日公開。 監督、元プロレスラー・大魔神役(主演)。 俳優として初主演作。 燃える闘魂アントニオ猪木50年の軌跡 2010年11月13日公開。 『アントニオ猪木デビュー50周年DVD-BOX』発売記念としてDVD収録映像を劇場用に特別編集し1週間限定上映。 テレビ [ ]• 『恐怖の無人島に挑む7人の少年ターザン・隊長アントニオ猪木とパラオ島大探検』(1981年11月25日)• 『挑戦! アントニオ猪木と少年シルクロード冒険隊!! 』(1984年9月5日) (後にこの番組で放送された映像の一部はで繰り返し放送された)• (2003年、)• そこまでやるかマン 世界最強の勇者たち(2010年、)• (2011年1月2日、テレビ朝日)• での仕事で欠席となった、()の代役として、・共々、参加した。 (2012年、) - OPで実写やアニメ映像で登場。 2018年1月9日、テレビ東京 ドラマ [ ]• - 死神酋長役、ストライプ・スネイク役(1962年、、第1話、第4話)• - 本人役(1976年、NETテレビ、第1話ゲスト出演)• 第1話(2008年、)• 有馬温泉殺人事件 - 本人役(2016年5月30日、TBS) ラジオ [ ]• (2010年4月 - 、) アニメ [ ] テレビアニメ『』では出演はしていないが実在の人物としてのアニメキャラが登場している、声は。 - (1981年、プロレス指導としてクレジット)• (2006年) 音楽 [ ]• 道(2007年7月11日、 vs アントニオ猪木) CM [ ]• 陶陶酒本舗 (日本プロレス時代に出演)• 企業イメージCM• マキルヘニー・カンパニー タバスコ(と共演)• ハイネックスV• ジャンボフランク• 低周波治療器「リズムタッチ」• 缶コーヒー「」• エアーサロンパスEX• モナ王• ポッカコーヒー顔缶 (声のみの出演)• プロポナンゴールド• 企業イメージCM• 企業イメージCM• パソコンシリーズ (と共演、声のみの出演)• 企業イメージCM (との共演バージョンも存在した)• 震災臨時キャンペーン• MLBメジャTキャンペーン• 堅あげポテト(ナレーション)• サントリー (アニメーションでの出演)• 「探検ドリランド」(2012年)• 「ツイてるパック篇」(過去映像を使用、声のみ新録)• 初売りフェアCM「意気込む店長」篇• TVCM「グラブってますかー!!! 編」(2016年) パチンコ、パチスロ [ ]• パチンコ• アントニオ猪木という名のパチンコ機(2004年・)• CR燃える闘魂 アントニオ猪木(2006年・平和)• CRアントニオ猪木という名のパチンコ機 道(2010年・平和)• CRアントニオ猪木という名のパチンコ機〜やれるのか、本当にお前〜(2012年・平和)• パチスロ• (2002年・平和)• (2003年・平和)• (2007年・平和)• アントニオ猪木が元気にするパチスロ機(2010年・)• アントニオ猪木が伝説にするパチスロ機(2013年・オリンピア)• 闘魂継承アントニオ猪木という名のパチスロ機(2019年・オリンピア) (平成18年)秋にが猪木に関するパチンコ・パチスロの商品化権独占使用許諾契約を結んだため、「CR燃える闘魂〜」、「アントニオ猪木も燃える〜」の2機種はフィールズから販売されている。 猪木のものまねをする人物 [ ]• (元)• (元)• (元)• - の興行で時々披露。 猪木芸人であるの目の前で小猪木よりも上手い物真似を披露し、小猪木の立場を奪うのが定番となっている。 猪木をモデルとした架空の人物、キャラクター [ ] マンガ・小説• 国会議員()• グレート巽()• アイアン木場()• 金小路鉄男()• グレートニオ猪地()• 生野勘助()• アドニオン諸本()• マーベラス・ロッカ(神拳李酔竜)• マーベラス・虎嶋()• イノギ漢字()• アーマンド猪熊()• アンタノワ猪金(やっぱ! アホーガンよ) - 連載当初は「アンターワ猪金」であったが、単行本化の際に変更された。 ゲーム• ビクトリー武蔵(シリーズ)• ファイター隼()• ダッシャー猪場() 脚注 [ ] []• 当時アナウンサーのの命名である。 J-CASTニュース 株式会社ジェイ・キャスト. 2012年12月30日. 2019年6月26日閲覧。 Richard Leiby 2012年12月13日. Washington Post. 2019年7月20日閲覧。 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社• 長兄は同行せず。 祖父は渡航中に船上で毒性のある未熟なを食べて死去。 なお陸上部の前に部に入っていた。 ただし「うまくないから」という理由で退部。 WWE. com. 2015年4月1日閲覧。 『Gスピリッツ Vol. 16』P64「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、、)• 一代記漫画「」(作:、画:)の作中で馬場が「後にアントニオ・ロッカにちなんで、猪木寛至くんに「アントニオ」というリングネームをつけた」と語る場面がある [ ]。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月1日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月1日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年4月1日閲覧。 16』P60-61「カンジ・イノキのアメリカ武者修行」(2010年、辰巳出版、)• プロレススーパースター列伝 アントニオ猪木の項• 36』P15-16「『格闘技世界一決定戦』の表と裏」(2015年、辰巳出版、)• 試合前にの不意打ちのをくらい負けするなど、非常に苦しいトーナメントであった。 このスカイダイビングに猪木は10億円の保険を掛けていた。 の娘や猪木の娘(サイモン猪木の妻)などが参戦を表明していた。 では過去にが殿堂入りしている。 デイリースポーツ 2010年3月30日閲覧• 2013年2月21日. 2013年3月14日閲覧。 - デイリースポーツ・2017年5月25日• - スポーツ報知・2017年6月2日• - 東京スポーツ・2017年6月7日• - 日刊スポーツ・2017年6月28日• - IGF公式サイト・2018年3月22日• - 東京スポーツ・2017年9月15日• バトル・ニュース 2019年2月20日. 2019年2月20日閲覧。 デイリースポーツ online 2019年2月19日. 2019年2月20日閲覧。 1989年(平成元年)7月29日第14号「平成元年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」• 参議院公式サイト• kokkai. ndl. 国立国会図書館. 2019年12月14日閲覧。 1992年(平成4年)8月3日中央選挙管理会告示第11号「平成四年七月二十六日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」• 当初は公設第2秘書であったが、第1秘書のが借金問題で秘書をされ昇格。 1995年(平成7年)7月12日参議院比例代表選出議員選挙選挙長告示第1号「平成七年七月二十三日執行の参議院比例代表選出議員の選挙において、政党その他の政治団体から参議院名簿の届出があった件」• スポーツニッポン 2013年6月5日閲覧• (平成25年)7月26日中央選挙管理会告示第25号「平成二十五年七月二十一日執行の参議院比例代表選出議員の選挙における参議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件」• 読売新聞 2013年7月27日閲覧• 朝日新聞 2013年7月27日閲覧• 朝日新聞 2013年7月29日• 朝日新聞 2013年7月25日• msn産経ニュース 2013年11月1日• 読売新聞 2013年11月1日• 日本経済新聞 2013年11月13日• 毎日新聞 2013年11月21日• 時事通信 2013年11月22日• 『』 2013年12月13日 12月14日閲覧• MSN産経ニュース 2014年1月13日. 2014年1月14日閲覧。 週刊朝日(1月31日号) 2014年1月22日. 2014年3月27日閲覧。 PRESIDENT Online 2014年3月24日. 2014年3月27日閲覧。 MSN産経ニュース. 2014年4月15日. 2014年8月8日閲覧。 MSN産経ニュース. 2014年4月24日. 2014年8月8日閲覧。 MSN産経ニュース. 2014年4月25日. 2014年8月8日閲覧。 MSN産経ニュース. 2014年4月23日. 2014年8月8日閲覧。 MSN産経ニュース. 2014年7月7日. 2014年8月8日閲覧。 MSN産経ニュース. 2014年7月9日. 2014年8月8日閲覧。 2014年7月14日. 2014年8月8日閲覧。 2014年7月16日. 2014年8月8日閲覧。 2014年(平成26年)10月3日総務省告示第358号「政党助成法第二十三条第四項の規定による未交付金の交付を受けようとする分割政党の届出があったので公表する件」• 毎日新聞 2014年12月18日閲覧• デイリースポーツ 2014年1月23日閲覧• 時事通信. 2016年7月28日. 日本経済新聞 2019年2月25日. 2019年2月25日閲覧。 東京スポーツ2019年6月6日付• 産経新聞. 2019年6月5日. 2019年6月6日閲覧。 毎日新聞. THE MAINICHI NEWSPAPERS. 2019年6月7日. 2019年6月10日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年9月2日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年9月2日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年9月8日閲覧。 Puroresu. com. 2015年9月8日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2015年9月8日閲覧。 Puroresu. com. 2015年9月2日閲覧。 は 『弓を引くナックルパート』と表現したこともある。 猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれるは、オーケストレーション・バージョンを入場曲とする。 アントニオ猪木、2011、「北朝鮮とは対話で勝負しよう!-北朝鮮訪問22回の経験から」、『世界』(2011年12月号 No. 824)、岩波書店、 pp. 234-240• ジェイ・キャスト 2013年8月5日. 2013年11月22日閲覧。 NEWSポストセブン• 2016年5月12日. 2016年6月4日閲覧。 サイモン猪木インタビュー• 日刊スポーツ 2006年9月13日• 日刊スポーツ2006年9月17日• 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り! <獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p32-33• YOMIURI ONLINE. 2016年1月28日. 2016年11月27日閲覧。 「戦いのロマンと企業戦争」(『G SPIRITS vol. 30』、2013年、)P18の坂口征二による証言• 但し、日本プロレス時代や新日本プロレス旗揚げ当初は緑色や紺色のタオルを首に巻いてリングに上がっていたこともあり、Youtubeなどで視聴出来る猪木の古い映像ではそれが確認出来る。 デイリースポーツ. 2015年4月21日. 2016年3月21日閲覧。 ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。 36-37• 桑田佳祐「ただの歌詩じゃねえか、こんなもん」 1984年、新潮社、p215• 「」『』2012年3月20日号、、2012年3月、 2012年9月17日閲覧。 東邦出版『KAMINOGE』vol. 85 p. 『東スポお宝写真館』-1967年11月 東京スポーツ 2013年6月21日付7面• - 日刊スポーツ 2019年8月28日• 猪木の実兄でブラジル在住の相良寿一が、ブラジル空手道協会の最高師範で、軍の中にも多くの弟子を抱えていたことから、相良を通じて軍隊の協力を得ることができたという。 『プロレスリング醜聞100連発!! 』P90-91 著(1998年、、)• 産経ニュース 産業経済新聞社・産経デジタル. 2015年2月16日. 2018年10月17日閲覧。 ニュースウォーカー 2016年5月19日. 2016年5月25日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 外部リンク [ ]• - チャンネル• - Online World of Wrestling• - WWE. com• タレントデータバンク『』 - 党職 先代: 第2代:2016年 次代: 先代: 結成 初代:2014年 次代: (政策調査会長に統合) 先代: 第2代:1989年 - 1998年 次代:.

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