あちこち の すず さん。 『この世界の片隅に』NHK総合で地上波初放送、「#あちこちのすずさん」特集番組も

今年も実施「#あちこちのすずさん」キャンペーン

あちこち の すず さん

「 あちこちのすずさん」宣伝ツイートまとめ 【 募集中】 昨夏、 でスタートした「あちこちのすずさん」。 この夏、いただいたエピソードをイラストやアニメにして、シェアします。 あなたの身近にいる「すずさん」を教えてくださいませんか。 スギナ・たんぽぽ・すずな・かたばみなど 今回の記事では冒頭の画像でスギナの写真を使わせていただいています。 実はスギナも「この世界の片隅に」では重要な戦時下の食料です。 すずさんが嫁ぎ先の北條家の食卓で茹でて、水に晒して調理している場面があります。 ちなみに先日書いたブログではたんぽぽの写真を使いました。 すずさんはたんぽぽの葉っぱをざく切りにして、おからに混ぜてやはり北條家のおかずにしていました。 「この世界の片隅に」では他にもすずな・かたばみ・すみれなど道に生えている野草もおかずとして使われています。 おそらく「 あちこちのすずさん」では、こういった戦時下の食卓についても取り上げられるのではないでしょうか。

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『この世界の片隅に』NHK総合で地上波初放送、「#あちこちのすずさん」特集番組も

あちこち の すず さん

日中戦争が昭和12 1937 年に始まってから、軍需優先で金属や布、皮といった物資を民間の商品に使いにくくなり、さまざまな代用品が登場します。 そんな中、陶器は代用品の主力に。 こちら、陶器製のお釜。 同様の物は昭和15 1940 年頃から姿を見せています。 — 信州戦争資料センター himakane1 信州戦争資料センターより:この釜は、内径22センチほど。 1・8升ほどのご飯を炊ける大きさです。 愛知県常滑町で量産している様子を昭和16(1941)年4月ごろに撮影した写真が存在しており、それなりの数が出回ったようです。 残念ながら、利用状況を確認できる手記等は見つけられませんでした。 使った方がおられましたら、ぜひお話しをうかがいたいです。 信州戦争資料センターは長野県民有志のグループで、戦争資料の実物を使い、戦時下の様子を紹介する展示会を毎年開いています。 収蔵品は、代表が個人的に2007年9月から収集しており、4500点を超えています。 主に戦争と庶民の生活にかかわるモノを集め、戦争は前線も後方もなく庶民を巻き込むという実態を伝えたいと考えています。 多くの方が過去に学び、将来の道を歩む参考にしていただけるよう、収集と保存、公開に取り組んでいきます。 祖母が戦時中に作ったモンペ 今年もNHKのクロ現+で の放送をされるようで、番組のWebページで情報を募っています。 このページの内容を投稿してみました。 最初「もんぺ」を着るように通達が出ても、女性の間では「ダボっとしたところとか、かっこ悪くて」とても嫌がったようです。 (それまでは、袴で通勤していたようです。 )それで、職場の若い子からか「かっこいい もんぺ」の型紙を借りて、着物を切って作ったようです。 戦時下でも、女性は「おしゃれ」に気を使っていたのでしょう。 祖母が大切にしていたサクラビスク人形 祖母が疎開時に姉とお揃いで持ち出したサクラビスク人形。 室蘭に暮らしていたが、艦砲射撃の影響で、洞爺湖に疎開した。 「人形は何かの時の身代わりになる」と母親から渡されたようだ。 疎開先では、この人形と遊んだり、魚釣りをしたりと戦争とは無縁の楽しい生活だったと聞く。 りゅうさんより:祖母は当時7歳の小学校1年生で、5年生の姉と二人で疎開しました。 お人形は、姉と同じものを持っていました。 戦後、北海道に住むその姉が千葉の祖母のところに懐かしい人形を送ってくれたのですが、今回投稿するにあたって人形をよく見たら、祖母の名前である「啓子」ではなく、祖母の姉の名である「富子」と書かれていました。 何十年も入れ替わっていたことに気づいたのです。 祖母は今も、パソコンと太極拳を趣味に元気に過ごしています。 夫の、息子の無事の帰還を祈って〜千人針〜 昭和15-6年頃のおしろい。 容器は紙製。 17-8年頃はもっとシンプルなデザインになり、19-20年頃は生産がなくなったのでは?とのこと。 容器から溢れ手についたおしろいの粉は優しい香りがしました。 — 占D vella0225 編集部より:大正から昭和にかけて、東京など大都市に暮らす女性は、若い人を中心に流行の洋服を着るようになり、おしゃれをして街を闊歩していました。 しかし、日中戦争が始まった1937年頃から政府は国民を戦争へ向けて総動員するとの号令をかけ、「贅沢は敵だ」などのスローガンで派手な服装や化粧をしないよう人々に圧力がかかったのです。 でも、そうした中でも目立たないところで、例えば白粉を控えめにでもつける、薄く紅を差す、あるいはモンペの柄などで工夫をしておしゃれを楽しみ続けたと言います。 鹿児島・加治木で失われた若者の命 約80年前のミシン、棚、五右衛門風呂、防空壕。 五右衛門風呂は戦時中からありますが戦後にコンクリートで周りを固めてしまっています。 防空壕は加治木空襲の際、祖母の家近くに疎開する人たちが来た時に作ったものだそうです。 見えづらいですが奥の方に防空壕があります。 そのうち、加治木町(現姶良市)は、終戦直前の8月11日に大規模な攻撃を受け、加治木中学校(現県立加治木高校)では、15人の生徒の命が奪われたのです。 持ち主を失ったランドセル ランドセル 大阪府南河内郡高鷲国民学校(現・羽曳野市立高鷲小学校)1年生に在学中の、湖東和子さんが使用していたランドセル。 湖東さんは昭和19年12月風邪をひいて寝込んでいる際に空襲警報が鳴ったため、防空壕へ入りました。 — 昭和館 showakankudan 昭和館さんより:和子さんは、警報解除後に容態が悪化して、亡くなりました。 ランドセルの中には通信簿やノートなどが入っており、両親はそのまま保管しました。 このランドセルは、9月8日まで東京・千代田区の昭和館で開催される「特別企画展 受け継がれる想い〜資料に見る戦中・戦後の暮らし〜」で展示されています。 海軍の飛行兵を目指した15歳の少年 北九州出身の私は、海軍予科練習生(予科練)の生活と訓練の日々を描いた映画「決戦の大空へ」を見て、予科練の七つボタンの制服に憧れました。 これはその履歴書の写真です。 親には内緒で予科練の試験を受け、狭き門でしたが、その時は私と友達の二人だけが合格しました。 予科練には、当時の少年たちは純粋に憧れたもので、親には内緒で試験を受けました。 長男だったこともあり、親に知れると叱られ、反対されました。 お母さんが、悲しんだことは忘れられません。 聞き書きボランティア「平野塾」さんより:Mさんに伺った話です。 Mさんは昭和19年に航空隊に入隊しましたが、入隊した頃には既に燃料の油も尽き、憧れの飛行機には一度も乗ることはありませんでした。 空襲をくぐり抜けた父の羽織 お母さんの咄嗟の思い付きで、床下に埋めた茶箱。 焼け跡の自宅を確認したときその茶箱の中で奇跡的に助かった家族の着物。 74年経った今でも大事に持っています。 お父さんの五つ紋の絽の羽織、その中の一つがこの着物です。 聞き書きボランティア「平野塾」さんより:福岡の八幡大空襲を生き延びたSさんに見せていただきました。 戦火が激しくなると同時に、多くの住民は庭にも防空壕を掘って、そこに避難することに切り替えていきました。 Sさんのお母さんは、お父さんの三つ揃いの背広、羽織袴、よそ行きの着物など大事なものだけ茶箱に詰め込みました。 茶箱は油紙で包み、その上からゴザで巻いて、防空壕に入れた後、上から厚く土を被せて埋めました。 当時7歳だったSさんたちは、空襲警報が鳴れば、庭の防空壕に入る予定でしたが、8月8日大空襲の日は、焼夷弾の襲撃の中、必死の思いで近くの球場へ逃げました。

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今年も実施「#あちこちのすずさん」キャンペー ン|【西日本スポーツ】

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いつもYahoo! ニュースをご利用いただき、ありがとうございます。 Yahoo! ニュースの「」プロジェクトでは、戦争の記憶を若い世代に伝えていくため、NHKの「」キャンペーンと連携する新しい試みを行います。 恋やおしゃれ、笑いやケンカ。 映画「」(2016年製作/監督 片渕須直/原作 こうの史代)、「」(2019年公開予定)には、主人公のすずさんが戦時中に懸命に生きた日々が描かれています。 今回のキャンペーンはそんなすずさんのような人たちを探し「 あちこちのすずさん」というハッシュ・タグを通じてSNSでつなげていきます。 Yahoo! ニュースではこのキャンペーンに賛同し、「 あちこちのすずさん」 が使っていたような日常の「物」をSNSを通じて募り、「未来に残す 戦争の記録」に掲載していきます。 ユーザーのみなさんも身近な家族などから伝わる戦争中のくらしの様子(写真や画像など)がわかるものがあれば、ぜひ「 あちこちのすずさん」をつけてSNSに投稿してみてください。 戦争体験者が少なくなる中で、戦時中の日常をきっかけに多くの人に興味を持ってもらうことで、新しい戦争の伝え方の可能性を探っていきます。 お問い合わせ先 このブログに関するお問い合わせについては へお願いいたします。

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